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東京高等裁判所 昭和59年(う)1012号 判決 1984年11月28日

本店所在地

東京都台東区上野一丁目二番三号

株式会社 犬塚信夫商店

右代表者代表取締役

犬塚康雄

本籍

同都同区上野一丁目六番地

住居

同都同区上野一丁目二番三号

会社役員

犬塚敏子

昭和一〇年九月二五日生

右の者らに対する各法人税法違反被告事件について、昭和五九年四月二七日東京地方裁判所が言い渡した判決に対し、弁護人から各控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官佐藤勲平出席のうえ審理をし、次のとおり判決する。

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人古川太三郎、同佐藤充宏連名の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官佐藤勲平名義の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意第一ないし第三(事実誤認の主張)について

所論は、原判決は、被告会社代表者犬塚康雄(以下、康雄という。)及びその家族などの個人に帰属すべき定期預金、預け金、差入保証金、有価証券等につき被告会社に帰属するものと認定したのは重大な事実誤認である、すなわち、(1) 本件については、亡犬塚信夫(以下信夫という。)の財産が相当多額に存し、これが本件公訴事実の金員の一部として化体している。たとえば、株式取引調査書によれば、昭和四四年一〇月三一日から信夫が死亡する(昭和四六年四月三〇日死亡)までの株式取引は合計四〇回、買付金額約一八〇〇万円、売付金額約六〇〇万円となっているところ、当時これほど多額の金員を運用できるのは信夫以外にはいなかったのであるから、これが同人の個人財産であることは明らかであり、この期間分だけ信夫の一二〇〇万円分の有価証券が康雄ら遺族に引き継がれている。また、申述書(東京高裁昭和五九年押第三三九号の四、税務申告書等綴二綴のうち、東京地検昭和五六年領第六四八〇号符第二五四号の2中に編綴の株式会社犬塚信夫商店代表取締役康雄名義のものの控で一枚のもの)によると、信夫死亡時に二〇〇〇万円の現金が存し、信夫の債務と称する八〇〇万円を控除したことになっているが、実際には右八〇〇万円が他に支払れた形跡がないことからすれば、結局二〇〇〇万円の現金が信夫の遺産として存したことが明らかである。このように明白な部分の合計だけで約三二〇〇万円の信夫の遺産が康雄一家に引き継がれており、これが無駄に費消された形跡が全くないことからすれば、本件公訴事実の金員の一部として化体していることが明らかであるところ、これが被告会社に帰属すべきであるとの証明はなんらなされていない。(2) 本件公訴事実記載の金員は、その大部分が康雄又はその家族の個人的収入から発生したもので、被告会社の脱税行為とは関係がないものである。康雄の確定申告書、修正申告書等からみると、昭和五〇年から昭和五三年にかけて約四六〇〇万円の可処分所得が存し、これが全額資産取得に向けられている。(3) 仕入過大、売上除外によって得られた金員はそう多額ではなく、本件公訴事実記載の金額のごく一部である。検察官は、売上除外の額を、昭和五四年六月期五五〇〇万円位、昭和五五年六月期六六〇〇万円位と推認するが、売上除外をするとしてもせいぜい売上の一割程度しかできないのが実情であるから、このような多額の売上除外をするとすれば、実際の売上高は少なくとも五~六億円程度存しなければならないが、本件のようなわずか約一坪程度の店舗において、五億、六億といった売上が存しないことは明白である、というのである。

(信夫の資産が本件公訴事実記載の金員に化体している旨の主張について)

収税官吏作成の株式取引調査書によると、昭和四四年一〇月三一日から信夫の死亡した昭和四六年四月三〇日の間に合計四〇回の株式取引が存することは所論のとおりであり、このうち「イヌヅカキヨシ」及び「イヌヅカキヨコ」名義の一〇回の取引(番号1ないし9、12、買付合計四二九万一二〇〇円、売付合計三三〇万四三八四円)については、これらの名義による取引が信夫の生前に限られていること、信夫にはいわゆる二号がありその名前が「キヨコ」であったこと及びこれらの取引が信夫以外の人によって行われたことを窺わせる証拠はないことから、信夫の取引である可能性を否定し難いけれども、これ以外の「金井峰子」「金井朋子」名義の三〇回の取引については、これらの名義による取引は信夫の死後も引き続き数年間、数百回にわたって行われていること、被告人犬塚敏子(以下、被告人敏子という。)の検察官に対する昭和五七年八月一七日付供述調書によると、「金井峰子」「金井朋子」はいずれも被告人敏子の妹の名前であること、被告人敏子は「金井峰子」「金井朋子」名義で株式の取引をしていたこと、が認められ、これらの事実を考え合わせると、これらの取引は信夫の取引ではなく被告人敏子の取引と認めるのが相当である。そうすると前記「イヌヅカキヨシ」及び「イヌヅカキヨコ」名義の買付金額と売付金額の差額は九八万六八一六円にすぎないし、被告人敏子は、原審公判廷において、信夫が死亡した時土地のお金とか信夫名義の株とかは全部二号の女性が持って行った旨供述していることをも考え合わせると、所論のように信夫から多額の有価証券が康雄及びその家族に引き継がれているとは認められない。次に、関係証拠によると、所論引用の申述書控が作成された経緯は次のとおりである。

下谷税務署は、昭和四九年一〇月ころから昭和五〇年二月ころにかけて被告会社の税務調査を実施し、被告会社には多額の売上除外や架空仕入の計上があり、残高にして六~七〇〇〇万円に達する株式取引があるとして一億三~四〇〇〇万円に及ぶ修正申告を慫慂した。被告人敏子らは多額の売上除外があることを否定するとともに、株式取引も被告人敏子の妹や実家などの外部からのほか、信夫の遺産から持ち込まれたものや被告人敏子や康雄個人のものであるから被告会社に帰属しないなどと抗争した。被告人敏子らからその相談を受けた中沢税務会計事務所の事務員の吉田勇が調査した結果、売上除外や架空仕入があることを確認するとともに、前記株式取引の資金も被告人敏子の妹や実家など外部から出ていないことを突き止めた。その結果、吉田勇は被告人敏子らの了解のもとに、架空仕入や売上除外を一部認め、一部については信夫の遺産からの持ち込みがあったことにして税務当局と妥協することにした。前記申述書はその際被告会社代表者の康雄名義で作成されたものであって、信夫の死亡後現金二〇〇〇万円が押入納戸にしまってあったことは間違いない旨記載されているが、右二〇〇〇万円の現金は現実には存在せず(右申述書の名義人である康雄自身、原審公判廷において、押入納戸に現金二〇〇〇万円があるのを見たことはない旨供述している。)、右株式取引の資金も被告会社の売上除外によるものであった。

そうすると、所論のいう信夫の遺産である現金二〇〇〇万円は、実際には存在しなかったのであるから、これが存在することを前提に本件公訴事実記載の金員の一部に化体している旨主張する所論はその前提を欠き失当であるといわなければならない。

(被告会社の仕入過大、売上除外は、本件公訴事実記載の金額のごく一部にすぎず、その大部分は康雄又はその家族の個人的収入から発生した旨の主張について)

関係証拠によると次の事実が認められる。

被告人敏子は、夫康雄とともに被告会社の経営に従事し、とくにその経理全般を取り仕切っていたものであるが、夫の康雄が病弱で、かつ、金銭に対する執着心が少ないところから、店の売上が長期に落ち込んだときや将来の店舗の移転問題などに備え、資金を蓄えようと考え、本件査察時の約一〇年前から被告会社の売上の一部を除外する等して、これを仮名で定期預金にしたり、仮名で株式売買を行う等して来た。これら簿外の定期預金のうち朝日信用金庫上野支店の分については、同支店の担当者が被告会社のアメ横の店舗において、被告人敏子から五〇万円を束にした現金をおおむね一回に一〇〇万円から三〇〇万円の単位で受け取っていた。同支店の担当者が被告人敏子から受け取る現金は魚臭く、塩や水を含んで湿っぽいという特色があり、年末、年始などに預かる金額は他の場合に比べ多額であった。被告人敏子が主として朝日信用金庫上野支店を利用していた時期にあたる昭和五二年六月から昭和五三年七月までの一年間の同支店における定期預金の設定高は五六七六万円、昭和五三年七月から昭和五四年六月までの一年間におけるそれは五五三九万六四〇〇円に達している。原判決が被告会社の簿外資金であると認定した定期預金、預け金、差入保証金、有価証券等(原判決のいう本件資産)は、その大部分が売上除外等被告会社の資金によって取得されたものであり、被告人敏子の妹や実家、信夫の遺産などから多額の資金が流入しているというようなことはなかった。ただ、被告人敏子や康雄にはそれぞれ個人としての収入や資産があり、被告会社は康雄と被告人敏子のいわゆる個人会社であって、被告会社の簿外資産と康雄らの個人の収入及び資産とが必ずしも厳密に区別されていない結果、個人の収入や資産が一部本件資産の取得資金に充てられている場合があった。収税官吏作成の代表者勘定合計表は、昭和五二年七月一日から昭和五五年六月三〇日の間における康雄ら個人の収入、資産と被告会社の資産の関係を調査したものであるところ、本件資産以外の個人資産取得金額から可処分所得金額を差し引いて算出した代表者勘定は、昭和五四年六月期が二五七万二九五三円のマイナス、昭和五五年六月期が六二万二〇五三円のプラスであって、康雄らの個人の収入が直接株式取引等本件資産の取得に向けられているものは殆んどない。しかし、康雄らの個人の資産が、本件資産の取得のための資金に充てられている場合があり、前記代表者勘定合計表においては、このような場合には個人から被告会社への貸付金として計上されているところ、個人から被告会社に対する貸付金の額は、昭和五二年六月三〇日現在で一五〇〇万円、昭和五三年六月三〇日現在で一五八七万三三五七円、昭和五四年六月三〇日現在で二九六九万四九三二円、昭和五五年六月三〇日現在で四三〇一万五八四六円となっている。

なお、原判決が被告会社の簿外資産であると認定した本件資産の総額は、昭和五四年六月三〇日現在で約四億八一九二万円、昭和五五年六月三〇日現在で約六億九四四二万円となっている。

以上の認定事実を前提として考えると、本件対象事業年度における康雄ら個人の収入・資産の本件資産への混入については、代表者勘定又は個人から被告会社への貸付金として処理され、被告会社の所得の計算上除外されているから、これが本件対象年度における被告会社の所得に影響を及ぼすことはないのである。しかし、被告会社の対象事業年度における所得の中には、被告会社の売上の外、有価証券の売却益、定期預金、株式等の利息、配当等を含んでいるので、その関係で本件資産の帰属如何が問題とならざるをえない。前記のように、本件資産はその大部分が売上除外等被告会社の資金によって形成されたものであるが、その一部の取得資金に康雄らの個人資産が充てられている。さらに前記代表勘定合計表を作成する際の調査より以前の段階において康雄らの個人資産が本件資産の取得資金に充てられた可能性も否定できない(もっとも、前記代表者勘定合計表によれば、個人から被告会社に対する貸付金は、昭和五四年~五年において急増しているが、昭和五二年~三年の段階では一五〇〇万円位に止まっていたのであって、このことから考えると、これ以前の段階における康雄らの個人資産の混入があるとしても、それほど多額のものであるとは考えられない。)。ところで、関係証拠によると、本件資産の口座を管理運用していたのは被告人敏子であるが、同人においてこれらの口座を法人分と個人分とに分別管理していた形跡はなく、不可分一体とした管理がなされており、現実にこれを区別することは不可能であること、被告人敏子が本件資産を蓄積した目的は、被告会社の売上が長期に落ち込んだときや、将来の店舗の移転問題などに備えるため、すなわち被告会社のためであって、被告人敏子らの個人財産を蓄積するつもりでは全くなかったこと、被告人敏子は査察段階において、本件資産はすべて被告会社に帰属することを認めていたこと、査察段階において、被告会社ないしは被告人敏子の意を受けたと思われる弁護士や税理士が本件資産は被告会社の資産である旨再三の申入や陳情をしていること及び被告会社は康雄と被告人敏子のいわゆる個人会社であることが認められ、これらの事実を考え合わせると、本件資産自体は全て被告会社に帰属するものと認めるのが相当であり、本件資産の一部の取得資金に康雄らの個人の収入・資産が充てられているものについては、被告会社がその個人から借り受けたものと認めるべきである。

結局、本件資産は全て被告会社に帰属するとした原判決の認定は正当であって、原判決に事実誤認はない。論旨は理由がない。

控訴趣意第四(訴訟手続の法令違反、事実誤認の主張)について

所論は、被告人敏子の捜査官に対する供述中には原判決認定に沿う如き供述もあるが、右供述は、昭和五六年九月三日浜田査察官が否認する被告人敏子に対し、脱税事件で実刑となり刑務所に収監された例を持ち出して供述を迫り、恐怖にかられた被告人敏子が自供するに至ったもので、任意性、特信性がなく、また、その内容も真実を語ったものとはいえず、信用することができないものでこれを証拠とすることはできないのに、これに依拠して事実認定をした原判決には、訴訟手続の法令違反及び事実誤認の違法がある、というのである。

そこで、記録を調査して検討すると、被告人敏子の原審公判廷における供述によると、被告人敏子自身「国税局の係官から、そんなことを言っているなら栃木の刑務所へ行きますよということを言われたことはない。自分が供述を変えた最大の理由は、国税局の係官からそんな話(株売買で何億円も儲けたという話)は夢物語で信憑性がないと言われ、取り上げて貰えなかったからである」旨所論を否定する趣旨の供述をしており、他にも所論を裏付ける証拠はない。もっとも、被告人敏子は原審公判廷において、税務会計事務所の「吉田修から、国税局の担当官から「普通の人ならば交通事犯の刑務所に入るが、あなたの場合は栃木の女囚の刑務所に入れられるんだ。」と言われたということを聞いた。その後主人の康雄も国税の方から言われて帰って来て、主人からも同旨の話を聞いた」旨供述しているのであるが、原審証人浜田理の供述及び吉田修の収税官吏に対する昭和五六年九月二一日付質問てん末書(抄本)によると、吉田修が浜田査察官から取調べを受けたのは昭和五六年九月二一日のことであって、被告人の自供より後のことであること、同月三日付の収税官吏に対する被告人の供述調書が作成された経緯は、同年八月中ごろ、原田敬三、谷口優子の両弁護士が東京国税局に来て、休暇中の浜田査察官に代って応対に出た市岡主査に対し「事件を受任するにあたり本当のことを話してくれと追及したところ、被告人敏子はこれまで国税局に話したことは全部嘘で、売上除外分が預金や株に行っている旨話している。」などと説明したため、この連絡を受けた浜田査察官が同年九月三日被告人敏子の供述を求めたところ、「これまでの供述には嘘があり、一〇年以上前の信夫の生前から、私が売上金を任されていたので、売上除外をしてこれを定期預金や株式取引に充てていた。」などと供述し自白するに至ったものであることが認められるから、被告人敏子が浜田査察官から脱税事件で実刑となり刑務所に収監された例を持ち出して供述を強制されたというような事実はなく、被告人敏子は捜査官に対し任意に供述したものと認められる。そうすると、被告人敏子の収税官吏及び検察官に対する各供述調書はいずれも証拠能力を有するものというべく、これを証拠に採用した原判決には訴訟手続の法令違反はない。

次に、被告人敏子の検察官に対する昭和五七年八月一七日付供述調書の特信性について検討すると、被告人敏子の原審公判廷における供述は、一貫性がなく、同一公判期日内でも休憩の前後で食い違うなど不自然なところが多いばかりでなく、その内容も他の関係証拠によって認められる定期預金や株式取引の状況などとも符合しない不合理なものであるのに対し、被告人敏子の前記検察官に対する供述調書については、同人は在宅のまま取調べを受け、かつ、査察段階から弁護人が選任されているなど虚偽の事実を述べなければならないような状況になったこと、その内容も他の関係証拠によって認められる定期預金や株式取引の状況と符合することなどを考え合わせると、被告人敏子の検察官に対する前記供述調書には、原審公判廷における供述よりもこれを信用すべき特別の情況があると認められる。そうすると、被告人の検察官に対する前記供述調書には証拠能力があり、これを被告会社に対する証拠に採用した原判決には訴訟手続の法令違反はない。

また、記録を調査しても、原判決の挙示する被告人の収税官吏及び検察官に対する各供述調書の原判示に沿う供述に信用性がないとは認められないから、原判決には事実誤認はない。

論旨はいずれも理由がない。

よって、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 海老原震一 裁判官 和田保 裁判官 小田健司)

○ 控訴趣意書

被告人 株式会社 犬塚信夫商店 他一名

右被告人らに対する法人税法違反被告事件の控訴の趣意は次のとおりである。

昭和五九年七月二五日

右被告人ら弁護人 弁護士 古川太三郎

同 弁護士 佐藤充宏

東京高等裁判所 第一刑事部 御中

原判決は、そもそも被告会社の代表者犬塚康雄(以下単に康雄という)及びその家族などの個人に帰属すべき昭和五四年六月期及び昭和五五年六月期の定期預金、預け金、差入保証金、有価証券等の大部分につき、被告会社に帰属するものと認定したものであり、重大な事実誤認であり、破棄を免れないものである。

第一、 本件については、亡犬塚信夫の生前において信夫の財産(遺産)が相当多額に存しこれが本件公訴事実の金員の一部として化体しているものである。

一 信夫の遺産にかかる遺産分割協議書によれば、信夫の遺産の中現実の現預金とみられるものは、わずか六八、一二九円にしか過ぎない。

二 一方、信夫が生前株式取引、穀物相場を行っていたことは吉田勇も又認めるところであり、原判決認定の信夫の経歴等からすれば、かなりの資産を有してきたであろうことが明らかである。

たとえば、株式取引調査書(甲八六)によれば次のことが明らかである。

信夫が死亡する(昭和四六年四月三〇日死亡)までの昭和四四年一〇月三一日より四六年四月一九日までの約一年半の間の株式取引は合計四〇回に及んでおり、その間の買付金額は約一八〇〇万円であり、売付金額は約六〇〇万円である。

従って、このわずかな期間だけでも約一二〇〇万円の資金が“どこからか”流入していることとなる。

しかも一枚目の番号1及び2は、現物株でありながら最初から売付で始まっており、この事は以前から持っていた事実を証明しているものであって、従って当株式取引調査書はそれよりも以前に遡って調査すべきところ故意に昭和四四年一月三一日以降のみしか調査していない。

又、同調査書の右期間の口座名をみると被告会社のものは全くなく、全て個人名である。

特に一枚目の「イヌヅカキヨコ」については、信夫のいわゆる二号が「キヨコ」という名前であったことからすると、信夫が個人の金員で同様を売買してきたことがうかがわれ、他の名義についても同様のことが考えられる。

少くとも、この期間の株式売買については信夫が為していなかったとする立証は全くなく、常識的には当時これほど多額の金員を運用できるのは信夫以外にはいなかったのであるから、同人の個人資産であることは明らかである。

してみると、この期間分だけでも信夫の一二〇〇万円分の有価証券が引きつがれていることとなり、この部分については被告会社の帰属とはなり得ないものである。

三 申述書一枚のものによると、信夫死亡時に二〇〇〇万円の現金が存したことになっており、信夫の債務と称する八〇〇万円を控除したこととなっているが、実際には右八〇〇万円は他へ支払われた形跡がないことからすると、結局少くとも二〇〇〇万円の現金が信夫の遺産として存したことが明らかである。

四 右二、三のように明白な部分の合計だけでも約三二〇〇万円の遺産が信夫から康雄一家に引きつがれている。

この金員については、他に無駄に費消された形跡が全くないことからすれば本件公訴事実の金員の一部として化体していることは明らかである。

反面これ等の金員が、会社に帰属すべきものであるとの証明は、何らなされていない。

第二、 本件公訴事実記載の金員は、大部分が康雄又はその家族の個人的収入より発生したものであり、会社の脱税行為とは関係がないものである。

康雄の確定申告書、修正申告書等からみると原審でも指摘したように五〇年から五三年にかけて約四六〇〇万円の可処分所得が存することが明らかである。

右金額は、公租公課、減価償却等の諸経費を控除した後の金額であるから、その金額が資産取得に向けられたものである。

特に敏子もまた給料を取得していたことを考えれば、生活費についてはこれで足り康雄の収入については全額資産取得に向けられたとみてよい。

第三、 仕入過大、売上除外により得られた金員もそう多額ではなく、本件公訴事実記載の金額のごく一部である。

即ち、吉田勇のメモ(検甲五〇)四枚目には売上除外として、

第三年度 二五、一五六 三五・九五%

第二年度 二七、六七三 三一・一一%

第一年度 二九、四二六 三一・二〇%

計 八二、二五五

とする記載がある。

しかし、実際には、申述書には三〇〇〇万円分のみが仕入過大、売上除外として処理されているだけである。

むしろ、吉田のこのメモは差益率を無理矢理三%前後として売上除外にみせかけ、これを株式八八〇〇万円分を適当に三年度に割り振った感じがあり、事実とは全くそぐわないものである。

検察官は、売上除外は、

五四年六月期 五五〇〇万円位

五五年六月期 六六〇〇万円位

と推認するが、右のような多額の売上除外を為すとすれば、実際の売上高は少なくとも五~六億程度存しなければならない。

なぜならば、浜田証人は五割の差益率が存すると供述するが、実際には約三割前後の荒利しかなく、二割程度の一般管理費を考慮すれば実際の利益は一割前後しかないのであり、このような営業状態を考えれば、もし売上除外を為すとしても、せいぜい売上の一割程度しかできないのが実情であり、本件においてもそうであったし、又これが常識にも合致することである。

特に本件のようなわずか約一坪程度の店舗において五億~六億といった売上が存しないことは明白である。

更に、本件においては五割などという荒利の存したことについては、全体としては何ら証拠も存しないところである。

第四、 敏子の供述について

敏子の供述については、一部変化もみられるが、それは査察官の心理的強迫によって為されたものであり、原判決認定事実に沿う如き供述は特に信用すべき情況もなく、かつ任意にされたものでもないので、証拠とすることができないものである。

五六年七月三日の取調べに際し、否認する敏子に対し浜田査察官は、言葉の言いまわしはともかくとしても、要するに、脱税事件で実刑となり刑務所に収監された例を積極的に持ち出し供述を迫ったことは明らかである。

このため、敏子は恐怖にさられ従前否認していたものを同日より自供する形となり、以後本件起訴に至っているものである。

従って、右の敏子の供述はとても真実を語ったものとは言えず、信用することのできないものである。

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